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パラダイムにゆれる翻訳のありかた―翻訳学の流れを概観

パラダイムとは
科学哲学者のトーマス・クーンによって提唱された、「(科学上の問題などについて)ある時代のものの見方・考え方を支配する認識の枠組み」です。つまり、アカデミアにおける研究の流行です。これが変わることをパラダイムシフトといいます。

「翻訳」という語は

  • ある言語テクストを別の言語に移し換えること(翻訳行為
  • 翻訳されたテクスト(翻訳物

に定義されるのが一般的です。前者は訳出の行為に焦点を当てているのに対し、後者は行為よりもその行為の結果、つまりプロダクトに主な焦点があります。翻訳の定義を考察するには、この違いを整理して考える必要があるでしょう。また、文化・社会的転回になると、翻訳が社会の相互行為と捉えらえるようになります(詳しくは文化・社会的転回にて)。

翻訳研究の目線でみると、翻訳行為の研究も翻訳物の研究も他分野の知識や理論が必要です。例えば、翻訳行為に当たる同時通訳のプロセス研究はタスクの同時性(聴解・言語変換・産出を同時に行うこと)という意味で認知言語学的な知見が必要になります。これは翻訳物の研究においても同様です。実際に「翻訳シフト(翻訳をするときに発生する言語間のずれ)」の第一人者であるキャットフォード(1965)も言語学的モデルを利用しています。

翻訳はテクスト単体のみではなく文化と言語も同時に訳しています。言語的転回ではテクスト同士を比較する一方、文化・社会的転回では翻訳されたテクストとその文化との関係を見ます。

言語的転回

翻訳学における言語的転回とは起点テクスト(原文)と目標テクスト(訳文)に焦点を当てるパラダイムです。一般的に翻訳行為と翻訳物を研究対象とされるのは言語的転回によく見られます。

では言語的転回において翻訳はどのように位置付けられていたのでしょうか?

この時代の代表的な概念として挙げられるのが等価(くわしくはこちらを参照)、翻訳シフト翻訳方略(訳出方法の分類化)などです。これらの翻訳研究は簡単に言ってしまえば、キケロ(52B. C. E.? /2002)のいう「翻訳者」と「雄弁家」を出発点に、その枠組みを細分化したものと言えます。

翻訳者と雄弁家

斎藤(2013)によると「翻訳者」とは起点テクストの語を一語一語、順に訳していく逐語訳を行う者のことで、「雄弁家」とは意味される内容は保持したまま目標言語の表現形式に合わせた翻訳を行う者を指します。

つまり、翻訳の正しいあり方(等価)や、そこで生じるずれ(翻訳シフト)、等価を実現するための方法(翻訳方略)という枠組みで翻訳が語られてきたのです。つまり、このパラダイムの翻訳研究は起点テクストと目標テクストとの関係性を主な焦点としています。このことから、言語的転回における翻訳とは「等価を目指しつつ、起点テクストから目標テクストに言語変換を行う行為、またはそれによって産出された目標テクストそのもの」と定義することができるでしょう。

文化・社会的転回

言語的転回のあとには文化的・社会的転回が起こります。これは翻訳行為が社会の中でどのような影響を与えているのか、に焦点が当てられます。つまり、翻訳行為・翻訳物に加えて、翻訳者が研究の対象とされています。起点テクストと目標テクストの関係性という枠組みを超えて、翻訳を社会的相互行為と捉えているのです。

翻訳者という概念はホルツ=メンテリ(1984)の「翻訳的行為論」において明示的に示されましたが、翻訳行為が複数の参与者を含むという考え方は機能主義的アプローチスコポス理論)でも見られます。

複数の参与者とは
「翻訳的行為論」は多くの分野で働くプロの翻訳者も念頭に置いています。そのため、翻訳行為には何人もの関係者が含まれます。例えば、翻訳を必要とする発起者、実際に翻訳を依頼する依頼者、原文を作成した起点テクスト作成者、訳文を作成した目標テクスト作成者、訳文を使用する個人の目標テクスト利用者、訳文の最終的な受け手である目標テクスト受け手、などが関与します。

翻訳は社会において他者に影響を与える相互行為であるという捉え方は文化・社会的転回以前には見られないという点で、言語的転回とは異なる定義づけが可能と言えます。

これからのパラダイム

このように、特定のパラダイムによって翻訳という語が示すものに変化が見られます。これは翻訳学には特化した方法論が少なく、他分野の知見を借用してきたという歴史があるからです。そして文化・社会的転回は翻訳学のみならず、他の学問にも影響を与えています。研究分野として歴史の浅い翻訳学がその影響を受けるのも当然と言えます。

2000年代に入り、アカデミアのみならず、あらゆる業界で技術的転回が起こっています。翻訳学においても同様で、機械翻訳CATツールクラウドソーシングなどの翻訳テクノロジーが開発され、関連する研究が盛んになっています。この新たな転回において、新たな翻訳のあり方が生まれつつあります。この新たな転回において、私たちは翻訳の定義をもう一度考える必要があるでしょう。

まとめ

  • 翻訳という語は「翻訳行為」と「翻訳物」に分けられる。
  • 翻訳学には言語的転回、文化・社会的転回、技術的転回があり、それぞれパラダイムによって翻訳のありかたが異なる。

ゆうすけ

特に機械翻訳はこれまでの翻訳プロセスの常識を覆す可能性を持っています。それが僕が機械翻訳に興味のある理由の一つです。
参考文献
  • Catford, J. C. (1965/2000). A Linguistic Theory of Translation, London: Oxford University Press (1965). See also extract (‘Translation shifts’) in L Venuti (ed.) (2002), pp. 141-7.
  • Cicero, M. T. (52B. C. E.? /2002). The Best Kind of Orator (E. W. Sutton, & H. Rackham, Trans.). In D. Robinson (Ed.). Western Translation Theory from Herodotus to Nietzsche (2nd ed.). Manchester : St. Jerome. pp. 7-10.

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