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なぜ「訳」が悪者になったのか―TILT・翻訳教育論

この記事の概要
伝達能力の向上を重要視する「コミュニカティブ・アプローチ」によって、意味を限定させてしまう「文法訳読法」は排除されてきました。しかし、翻訳とは文法訳読法だけでなく、「なぜ訳すのか」を明確に意識した訳出プロセスも含まれており、それこそが言語教育の本質なのかもしれません。

伝達能力の向上を目指す「コミュニカティブ・アプローチ」

外国語学習において近年のトレンドはコミュニカティブ・アプローチ(Communicative Approach)と呼ばれるものです。

その以前には、オーディオリンガル・メソッドと呼ばれる、機械的にフレーズを繰り返す、または先生の質問に文法を意識しながら応えることで言語を学ぶ手法でした。

しかし、この手法は文法を重視する一方、文脈によって変化する「言葉の意味」に焦点を当てません。

この意味の部分を補うためにコミュニカティブ・アプローチが生まれたのです。

コミュニカティブ・アプローチでは、学習者は実際のコミュニケーションの中で言葉を学んでいきます。形式よりも意味に焦点を当てるのです。これに相反したのが「文法訳読法」でした。

意味を限定させる「文法訳読法」

文法訳読法では、「訳語」で外国語の意味を学びます。学習者が意味を理解できているか評価するときにも「訳す」という行為が行われます。

この「訳語」や「訳す」とはいわゆる直訳のことをいいます。

英語の授業で不自然な日本語が使われるのをみなさんも目にしたことがあると思います。あれは英語の文法に無理に対応させようとしたものです。

そして直訳は「言葉の意味」を限定させてしまうデメリットがあります

例えば、”Take”が「とる」と訳されていた場合、”take a shower (シャワーを浴びる)”や”take a medicine (薬を飲む)”などの用法は無意識に除外されてしまいます。

このように意味を限定してしまう手法は、近年に主流のコミュニカティブ・アプローチには適さないと考えられ、「訳」は外国語学習から排除される傾向にあったのです。

文法訳読法に関してはこちらの論文が詳しいです。
参考 「文法 ・訳読式教授法」の定義再考J-STAGE

混同される母語と外国語の習得プロセス

文法訳読法だけではありません。

「訳」が悪とされる理由がもうひとつあります。

それは、赤ちゃんは「訳す」ことはせずに母語を習得できる(つまり、母語だけで事足りている)から、外国語の習得も同じように達成できると誤解されていることです。

多くの場合、外国語学習者は既に母語を習得しています。そのため、赤ちゃんがいちから言葉を学ぶのとは違い、母語と比較することで外国語を学びます。

つまり、「訳」の使用は必然的に起こりうるものなのです。

学習者は外国語を理解しようとするとき、無意識に頭の中で「訳」を思い起こしています。この現象は「内的翻訳 (mental translation)」と呼ばれています。あなたにもそういった経験があるのではないでしょうか?

このように母語と外国語は同じプロセスによって習得できるという神話が「訳」の存在を排除してきたと言えるでしょう。

「訳す」=「直訳」ではない

もちろん「直訳」が「訳す」ことの全てではありません。

直訳しなければならないという固定概念を捨ててみましょう。

自由な訳を作ってみると、原文の話し手・書き手の意図、言葉が持つ意味の多様さ、訳文の読み手・聞き手の反応など、これまで決して見ることができなかった言葉の奥深さが垣間見られます。

これこそが言語教育の本質ではないでしょうか?

まとめ

  • 近年のコミュニカティブ・アプローチによって文法訳読法と「訳」は排除されていった。
  • 母語と同じように外国語も習得できるという神話が「訳」の重要性を薄れさせた。

外国語教育における「訳」の排除は、翻訳通訳と外国語教育との間に大きな壁を作る結果となりましたが、最近では両者が互いの重要性に気づき、翻訳通訳を外国語教育に取り入れようとする研究が増えてきています。

ゆうすけ

言葉を意識的に学ぶ訳による言語教育の可能性が模索されつつあります。
参考文献

翻訳通訳研究の新地平 | 武田珂代子

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